自由学園寮歌のふるさと「咸宜園」を訪ねて

東天寮や清風寮の寮歌として長年愛唱されている漢詩「寄咸宜園(咸宜園に寄す)」。
咸宜園とは、江戸時代後期に儒者・教育家の広瀬淡窓が豊後(現在の大分県日田市)で開いた私塾の名ですが、その咸宜園跡を訪れた原 孝二さん(D44)がご自身のFacebookにレポートを投稿したところ、2つの寮歌が作られた時期やメロディーの違いなど、様々なコメントがついて話題になっています。

男子部で過ごした全員が歌い、親しんできた歌詞でもあることから、原さんに快諾のもと、こちらで紹介させていただきます。(広報室)



①咸宜園跡

僕の母校である自由学園(東京都東久留米市)は、男子部中等科に入学すると「東天寮」という生徒が自治で生活する寮に入寮するのが決まりでした。
入学式の日、式が済むとすぐに親とは離れて東天寮に連れて行かれ、部屋ごとに分かれて、そして夕方の入舎式までに校歌にあたる「男子部賛歌」と「東天寮歌」を覚えさせられました。これがその寮歌。

休道他郷多苦辛
同袍有友自相親
柴扉暁出霜如雪
君汲川流我拾薪

(読み)
道(い)うを休(や)めよ 他郷苦辛多しと
同袍 友有り 自ら相親しむ
柴扉 暁に出づれば 霜雪の如し
君は川流を汲め 我は薪を拾わん

(現代語訳)
遠く故郷を離れて他郷の空に勉学する身には、辛いこと苦しいことも多い。でも、そのことを口にするのは止めよう。志を同じくする親友同士、親しみ合い励まし合って学問修養につとめているではないか。暁に起きて、柴の扉を開いて外に出れば、霜が雪のように降りている。さあ、朝の自炊だ。君は前の川で水を汲んでくれ、僕は林で薪(たきぎ)を拾ってくる。

意味そのものはまさに寮歌にぴったりですが、「七言絶句」という形式の漢詩で、中学1年生がすぐに理解するには難しい。
しかも曲も歌いやすいものではなく、覚えるのに苦労をしました。でも、そのおかげで、40年がたった今でも空で歌うことができます。

この詩の作者は江戸後期の儒者、詩人、教育家の広瀬淡窓(1782年~1856年)で、この詩は「休道の詩」と呼ばれる有名な詩です。淡窓は郷里の豊後(ぶんご、大分県)日田に私塾の咸宜園(かんぎえん)を開き、咸宜園は開塾から閉塾までの92年間に5000人を超える門下生が育ちました。学生時代の先輩、秋元さんに誘われて、その咸宜園跡、大分県日田市を10月21日に訪れました(写真①)。


②広瀬淡窓の足跡地図

淡窓は病弱で、生涯のほとんどを九州内で過ごしています。本州へは下関に一度行ったのみです(②)。

一方、自由学園の創設者のひとりで、自由学園の寮歌に「休道の詩」を採用することを決めたと思われる羽仁吉一(ミスタ羽仁、1880年~1955年)は山口県の三田尻(防府市)の出身で、2人は時代的にも地理的にも直接の接点はありません。それなのに、羽仁吉一が広瀬淡窓の影響を強く受けているのはなぜか。


③咸宜園管理者の高木重吉さん

我々2人を案内して、咸宜園についてていねいに説明してくださった咸宜園管理者の高木重吉さん(③)によると、交通の要衝で、徳川幕府の天領であった日田にあった咸宜園には、地元の豊後の国だけでなく、66の国から塾生が集まっていて、長門国、周防国の長州藩からも計225人もの塾生が学んだということです(④)。

 
④咸宜園の国別入塾者/⑤大村益次郎の入門簿

ちなみに幕末の洋学者、日本の近代軍制の創始者である大村益次郎(1824年~1869年)も長州藩から咸宜園に学んだ一人で、「三田尻から来た村田富太郎(大村益次郎)」という入門簿が残されています(⑤)。

羽仁吉一は三田尻で地元の華浦尋常小学校を卒業後、漢学塾の周陽学舎(現山口県立防府高校)で学びます(⑥)。
その当時の学長が、咸宜園で学んだ、広瀬淡窓の孫弟子に当たる人でした。

つまり僕らは江戸期の日田の咸宜園→明治時代の三田尻の周陽学舎→昭和以降の東京の自由学園という時間的にも、距離的にも長い旅を経て、「休道の詩」を身体にたたき込まれたということなのでした。そういうことが、初めて咸宜園に来てみて、体感、納得できたのでした。

 
⑥漢学塾の周陽学舎(現山口県立防府高校)/⑦高木重吉さんと原孝二さん(D44)

管理者の高木さんの話でもうひとつ興味深かったのは、「咸宜園は全寮制で、新しい入塾者がいるとすぐに先輩が入塾者に『休道の詩』を覚えさせた」ということです。これって東天寮で寮歌を教える、覚えるのと全く同じじゃないかと。

ほかにも咸宜園と東天寮、似ているところがたくさんありました。東天寮の源流は、幕末の日田にあったのかと、感慨深く思いました。高木さんの話がとってもおもしろかったので、最後に僕と秋元さんで東天寮の寮歌を歌ってあげました。「いい歌ですね」と高木さんは上機嫌でした(⑦)。

広瀬淡窓が咸宜園をつくったのは1817年、36歳の時ですが、塾を始めたのはもっと前の1805年、24歳のときです。最初は日田の町にある長福寺というお寺の中で、そして1807年、26歳のときに塾の「桂林園(桂林荘)」を建築。これが咸宜園に発展していきました。


⑧桂林荘公園の広瀬淡窓像

淡窓が「休道の詩」をつくったのはその桂林園時代、1815年頃といわれています。現在、桂林園は桂林荘公園という公園になっています。淡窓の石像(⑧)や休道の詩の詩碑があり、そばを小さな川が流れています。

僕は最初に休道の詩の「君は川流を汲め 我は薪を拾わん」という部分を聞いたとき、山深い場所での急流を想像しましたが、桂林園の川はずっとずっと緩く穏やかなものでした(⑨)。


⑨桂林荘公園の川

最後に。日田の町には咸宜園とは別に広瀬淡窓の生家を使った「廣瀬資料館」があります(⑩)。ここの展示もおもしろかったのですが、おもしろいと思ったのは淡窓直筆の「休道の詩」を使った掛け軸(3000円!)や色紙がお土産物として売られていたこと(⑪)。そうかあ。僕らが学んだ寮歌は、今や日田の観光資源にもなっているんですね。

 
⑩日田市中心部にある広瀬淡窓実家を使った廣瀬資料館/⑪「休道の詩」掛け軸

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