人生の道しるべ  28回生 上野志保

ミセス羽仁が天に召される7年前、私は高等科3年の生徒として自由学園のいきいきした空気の中で育まれていました。

終戦から4年目を迎えようとする1949(昭和24)年のことで、戦後の動乱期でしたが、すでに76歳になっておられたミセス羽仁はお元気で、私達生徒はミセス羽仁の末長いご健康を祈りながらも安定した気持ちで学園生活を送っていました。

◇羽仁先生係
そのような時に、「羽仁先生係」という当番がまわってきました。羽仁先生ご夫妻が暮らしておられるお宅の「衣」「食」「住」の仕事を、1人がそれぞれ1週間ずつ3人で交替しながら受け持つのです。

係をする人がなかなか決まらず、クラスで難儀していた時、日番が羽仁先生のお考えを伝えました。「ミセス羽仁、ミスタ羽仁としては、毎週人が替わるよりも決まったお手伝いさんにしてもらった方が楽だが、生徒の勉強になることなので、当番にしている」ということでしたが、その頃の私は受け止め方が浅くて、なかなか素直になれませんでした。

それに私は寮生でしたから、寮では分刻みの時間割が待ち受けていますし、他の当番もすぐに廻ってきます。もう少しでいいから心身共に余裕がほしい、と常々思っていたのです。

でも11月に入って、次の羽仁先生係として、私の名前も黒板に書かれてしまいました。急に病気にでもならない限り、逃れることはできません。重い気持ちを引きずってのスタートでした。

◇学園長から主婦へ
しかし、このように重い気持ちも、係になって第1日目、わずか5分にして解消しました。それまで直接身近に知る機会のなかったミセス羽仁のすばらしさを目のあたりにして、目からウロコが落ちたのでした。

最初は「食」の係でした。夕食の献立はミセス羽仁がお考えになるので、午後の掃除の時間にそれをうかがうことになっていました。ちょうどその時間帯は、教師室で教師会を開いていらっしゃる最中です。

私はスムーズにミセス羽仁からお聞きするところまでもっていけるか、ドキドキしながら教師室のドアをノックしました。「羽仁先生係の者です」と声をかけますと、すぐにドアが開いてミセス羽仁が出ていらっしゃいました。

「今、お野菜は何が残っているか」「白菜が少し残っています」「それでは、白菜とリンゴの甘酢和えにしよう。それから鰤の切身を買ってきて、照り焼きにしよう。もう一品はおすましを作るように」とおっしゃって、くるっと向きをかえ教師室へ戻って行かれました。

その後ろ姿は、もはや学園長に戻っておられました。その間わずか5分、1分の無駄もありません。学園長から主婦へ、主婦から再び学園長へと、その切り替えの早さ、見事さに呆然と立ちつくしてしまいました。

公の仕事と主婦の仕事とを、立派に両立させていらっしゃる一端を見せていただいたと思いました。後で気がついたことですが、それまで受け身であった私が、無意識のうちに前向きになっていました。

翌日も次の日も、教師室のドアをノックするとすぐに出て来られました。ご自身も羽仁先生係も時間の無駄をしないように、ミセス羽仁は出入り口の近くに席をとっていらっしゃるのではないか、と思われるほどでした。

◇冬の夜のシチュー
1週間の献立の中には「今日はけんちん汁にしよう」とおっしゃって、その日のいろいろな条件に合わせて、けんちん汁の中身をミセス羽仁ご自身で工夫なさったこともありましたが、2日目の夕食作りは大変勉強になりました。

その日のことです。「今日は恵ちゃん(三女・恵子先生)の帰りが遅いし、寒いからシチューにしよう」とおっしゃいました。

その頃、英国の詩人エドモンド・ブランデン先生が東京大学で講義をしておられ、恵子先生は聴講生として毎週1度、東大へ通っておられました。当時、田無町駅(現・ひばりケ丘駅)から学園までの夜道は暗く、人家も疎らでした。私はミセス羽仁の心遣いをそのまま恵子先生にお伝えしたくて、何とかしておいしいシチューを作りたい、どうすればおいしく出来るか、ということで頭が一杯になりました。

駅を少し通りすぎたところに小さな肉屋がありました。そこで牛肉を買い、帰ろうとした時、行く手の松林の中を赤木静先生がこちらに向かって歩いていらっしゃるではありませんか。

赤木先生の英語の授業を受けたことはありませんでしたが、無我夢中で駆け寄り、「羽仁先生係の者ですが、今日の夕食にシチューを作ることになっています。おいしい作り方を教えて下さい」とお願いしました。

赤木先生は、とてもうれしそうな表情をなさって、長年の滞米生活で身につけられたシチューの作り方を、終始にこやかにていねいに教えて下さいました。

そのポイントは、最初にお野菜を炒める時、肉の半量もいっしょに炒め、残りの半量の肉はシチューが出来上る少し前に入れること。「このようにすれば、いいおだしも出ますし、お野菜もお肉もおいしくいただけます」ということでした。

私はその説明を聞きながら、ひとつひとつ納得することが出来ました。コツを教えていただいたという安心感で、落ち着いて料理出来ました。

一緒に係をしていた岩鶴さんが、恵子先生のお帰りを待ってお給仕し、後片付けをすませて寮へ帰って来た時、「恵子先生がとてもおいしそうに召し上がって『今日このシチューを作ったのは誰?』とお尋ねになった」と話してくれました。私は思わず、「赤木先生ありがとう」と叫んでしまいました。

この経験を通し、赤木先生はご専門の英語の他、料理だけでなく、「衣」も「住」も驚くほどの実力を身につけていらっしゃるに違いないと思いました。

そして自由学園では、どの先生方も赤木先生のように、合理的でていねいな生活をしていらっしゃるに違いないと、それまで気づかなかったことにも思い及びました。

◇一足の足袋
次は「衣」の係でした。その1日目、朝の仕事を終えて授業に集中しようとしていた矢先、「ミセス羽仁が、朝からあなたを探していらっしゃる」ということで急いで駆けつけてみますと、脱衣室でうろうろと落ち着かないご様子です。

そして私の顔を見るなり「私の足袋を知らないか」とおっしゃいます。「朝、洗って干してあります」とお答えすると、「足袋は毎日私が自分で洗っているのだ」と言われ、あとは黙っておられました。ミセス羽仁がご自分で洗っていらっしゃると聞き、びっくりしましたが、とっさには、さほど悪いことをしたとは思いませんでした。

まだ「お年寄りには何でもして差しあげるのがよいことで、それがお年寄りを敬うことにもつながる」という戦前からの考え方がごく普通のことでしたし、それに甘んじているお年寄りが大半であったからです。

しかし次の瞬間、私は大変申しわけないことをしたことに気がつきました。第一に毎日続けていらっしゃる日課を1日中断させてしまったこと、第二に足袋を探すことで大切な時間を無駄にさせてしまったこと、そしてさらに、善意からでもミセス羽仁にとって大切なことに踏み入ってしまったに違いありません。ミセス羽仁は何もおっしゃいませんでしたが、さぞ憤懣やるかたない思いでおられるだろうと、身の縮む思いでした。

あれから半世紀以上たった現在、私たちは生涯、自分で自分の身の回りのことができる幸せを目標にいそしんでいますし、それを支える世の中にもなってきています。

ミセス羽仁が常に時代を超えて歩いていらっしゃることを、日常のこのようなところで身近に発見しようとは、本当に思ってもみないことでした。

◇物置の前で
最後の「住」の係では、ミセス羽仁は私に、「物置から錐を1本取ってきてほしい」と言われ、物置の中の見取り図を渡されました。

物置にはいろいろな物が収められていましたが、見取り図は実に克明に描かれていて、錐は一目で見つかりました。ここにも時間の無駄づかいはありませんでした。

それから2、3日してからのこと、いつもの時間に伺うと、ミセス羽仁は割烹着をつけて、物置の前にゴザを敷いて座っていらっしゃいます。

見慣れない姿にふと足を止めますと、「この物置の使い方に、もっとよいやり方はないかと考えているのだ」とおっしゃいました。私には完璧に整理されているとしか思えない物置を前にして、ミセス羽仁にはどのような発想が生まれるのでしょうか。超人的と思わざるを得ませんでした。

翌日も、お一人で黙々と物置の改革改善に取り組んでおられるミセス羽仁の姿がありました。

◇一人の人間として
それまでの私にとってミセス羽仁のイメージは、礼拝の時にステージの上からお話をなさっている姿、昼食のメインテーブルで「うん、うん」とうなづきながら報告を聞いていらっしゃる姿でしたが、この3週間でぐっと身近なミセス羽仁になりました。

卒業後、折にふれてミセス羽仁のなさりようが頭に浮かぶのですけれど、ミセス羽仁の足下にも及ばないどころか、自分自身一向に進歩成長しないことを嘆かわ
しく思うばかりです。

申すまでもなく、ミセス羽仁は人間として類まれな資質を具えておられましたが、それに加えて学園長として主婦として、そしてその2つを両立させるために、たゆまぬ研究、努力を積み重ね、それを継続しておられたと思います。

家事ひとつとっても、冷蔵庫も洗濯機もない時代、仕事と家庭生活の両立には、今とは比べられない苦労がありました。そうした日常から生まれた工夫がまた、ご生涯を通して『婦人之友』への新しい試みや提案につながっていったのでしょう。

Photo ←1950(昭和25)年の卒業の日に。中央・ミセス羽仁の右後が上野さん(自由学園資料室)

※羽仁先生係は、戦時下の1944年(昭和19)、23回生の油田和歌子さんと河崎富子さんが自発的に始められ、恵子先生の時代まで続きました。

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